仕事は目で盗め

 「親孝行しようと思うなよ。お前は3歳で既に親孝行し尽くしたんだからな」

と、父は私に言った。

 私が産まれる時、母か私かをDr.に迫られ、「どちらとも、お願い致します!」

と、二人とも駄目になるかも知れないのを掛けたらしい。

 私が出た時、蒼白く泣かないので、Dr.が私の足を持って、逆さにしてお尻をペンペン。

ようやっと、ふあ~と、泣いたそうだ。

 1日保育器に入っていて、父が

「見ろ!俺の娘が一番可愛い」

と、母子共、無事だったのに安堵したのか笑いながら、ガラス越しに見ていた。

 「お風呂も俺が入れてやったら、泣き止んで、気持ち良さそうにしてたんだぞ。だから、3歳で俺は充分親孝行してもらった」

と、何度か私に話した。

 父は一美と言う。だから、自分の美をつけたく、キャバレーの看板にミミと書いてあったのを見つけて美々にしようとしたところ、私にとって曾祖母に、自分の子供の名前をそんな風に付けたら駄目だし、幼稚園に行ったら、

「耳、耳」

と、馬鹿にされるから、ボク(父はそう呼ばれていた)、ちゃんと考えなさいと言われ、姓名判断の本を何冊か買って来て、どちらから見ても運が良いと言うので、のぞ美と付けられた。

 前に女性は子が付く名前じゃなきゃ駄目だよねと、私の前で言った人が居たが、キラキラネームに対しての事なのだろうけれど、私なら、のぞ美子になるし、人の親が必死に考えて付けた名前をとやかく言うもんじゃないとムカついた。

 父は私におもちゃは刀とか、電車とか、男の子が遊ぶ物ばかり買って来て、母に怒られていた。

 高校生の時点で帰国子女でもないのに英語が話せて、ギター、ピアノ、カメラは現像まで、二種免許を持っていたので、タクシーやバスの運転をしたり、結婚式の司会のバイトをしたり、車が故障したら自分で直せて、料理はそこいらへんの調理師より巧く、家事、洗濯の仕方は父から教わった。

 包丁の持ち方、出しの取り方、洗濯板の使い方等、決していいお嫁さんになるためではなく、母も死に目に遭っているし、若し自分に何かあったら、娘が一人になる。その時、生きて行ける能力を教えてくれたのだ。

 結婚に対しては何も言わなかったが、大卒の馬鹿な男より、俺の娘なら出世してみせろと、言われた。男の後ろを付いていかずにお前が前を歩けと、社長とかにお酌して媚びを売るんじゃない、凛として生きて行きなさいと。

 そして、仕事は聞くのでは無く、出来ると言われる人の仕事ぶりを、最初は掃除とかしかやらせてもらえないから、それを腐らずやりながら見て覚えて

「中田さん、この仕事やってくれる?」

と言われたら、直ぐに出来てる状態でいろと、仕事は目で盗め。

「どうやるんですか~?」

等と馬鹿な質問するなと、教えられた。

 テストの点数も、100点以外は全部0点。98点だと怒られた。

 父は本が好きで、初版本で、裏に中田蔵書という四角い印を押して小さな頃から、買い揃えていた。

 私が物心ついた時にはちょっとした図書館だった。

 日本・世界文学全集、吉川英治の歴史集、特にフリークだった三島由紀夫の全集の上に自決した時の日本全国の新聞の記事の切り抜きが置いてあった。父が

「のぞ美、此処にある本全部読んでも良いけど、三島だけは中学まで、読んじゃ駄目だからな」

と、言われると読みたくなるのが、幼心。

 隠れて小学生のうちに全部読んでしまった。そして、同性愛を知る。

 両親としてはそちらよりも、影響を受けて腹を切ってしまわないかと、真剣に恐れていたらしい。

 今、思うと父は逆接的に読むなと言ったのではないか?

 聞きたいが今は津軽海峡で眠っている。