パチンコ
今日、訪問看護のAさんが来た。彼女は私より、3つ年上だが、私に
「私より、大人で、色んな事知ってるじゃん!」
と言う。
彼女の趣味はパチンコだ。お金の為ではなく、純粋にパチンコが好きなのだ。
彼女にパチスロじゃんじゃん君とよしき君を教えてもらった。
私がパチンコをしたのは確か4歳の時。家族で大沼へ遊びに行って、パチンコ店に入り父と母が打っていて、父が私を膝の上に乗せて、私が打っていたら、店員さんに父と母が注意された(笑)。
父も母も、娘の私に大人にならなければ出来ない事を幼稚園児の私にさせた。
煙草🚬吸わせて噎せる私を笑って見たり、ビールの泡を飲ませたり、クリスマスにはシャンパンを呑ませて、次の日二日酔いになった事もある。
父の教育は先に悪い事をさせて、大人になったらしないようにしていた。
「のぞ美、ここにある本、全部読んでもいいが、三島だけは駄目だからな」
と言ったのも、今、思うとそういう事を言うとのぞ美の事だから、読むだろうなと分かっていたのだろう。
三島由紀夫の全集の上に割腹自決した日本の全国紙の切り抜きが置いてあった。
書棚の中にコップに半分、水を入れて、乾燥させない様にしていたし、全て初版本で、裏に中田蔵書と四角い印を押していた。
父は小学生の頃から、一冊づつ、函館の書店から買い求めて、全巻揃えていた。
世界文学全集、日本文学全集、吉川英治の歴史集、作家の生きざまの本やら、図書館に行かなくても良かった位、本だらけだった。
一度、豊臣秀吉の本を押してしまい、本を割ってしまい、怒られると思い、隠していたが、父は
「豊臣秀吉が好きか?」
と、笑いながら木工用ボンドで、本を直しただけだった。
そういう所は寛容だった。
母が入院していた時、朝食を作って、幼稚園まで送ってくれたりもした。
正直、母よりも、料理は上手かった。
母は母なりに、料理の本7冊買って勉強していたが、父はだしからして味が違うのだ。
凝り性で、カメラなら現像室を押し入れに作ってしまい、モノクロの写真を焼き増ししていた。
話すのが得意で結婚式の司会までやってしまう人だった。
二種免許を持っていたので、タクシーの運転も、観光バスの運転もした。
確か、私の幼稚園児のバスの運転も、かって出て、遠足に連れて行った事もある。
修理も自分で出来たので、態々、修理工場に出さなくてもすんだ。
家が奥尻ハイヤーだから、私にとって、祖父が創った会社だ。祖父は職人気質な為、父に仕事を教えたりせず、背中を見せて、学ばせた。
奥尻に自動車は売っていないので、函館から中古の車を安く買い求め、ペンキで塗り奥尻ハイヤーと書いてハイヤーを作ってしまった人だった。
都会に住んでいたら、逆に出来なかっただろう。都会なら、タクシーに作ってもらえるし、修理に出せば済む話しだから。
何も無い所だから、自らやるしかないから、全て自分で出来た。
祖父は中学を卒業して、自分は計算も苦手だから、知り合いの商店で働くと迷惑掛けるし、どうしよう?と考えたら、家の直ぐ側にフェリー乗り場があり、歩いて来た乗員を見て、閃いた。
車が無い人の為にハイヤーを創ろうと。
会社を創ったが、始めは祖父一人だった。そして、親戚、知り合いの人を雇った。
後に瀬棚ハイヤーが出来る。向こうは空港の側にある。祖父の考えを真似たのだ。
修理に出せばお金が掛かる。なら、自分で直せばいいだけだという考えだ。
函館に産まれていたら、そんな発想にならなかっただろう。
父は5人兄弟の長男坊だったが、奥尻にいるのは嫌だと、中学で函館に来た。
妹さんが、二種免許を取り、ハイヤーを走らせていた。そこに女だからと言う考えは通用しない。
今は孫(私にとって、従姉)が、婿養子を取り、続いているそうだ。
私も免許は持っているが、普通免許だ。
しかも、助手席担当(笑)。
乗っていると、身体で、この人は用心深い運転だなとか、スピード狂だなとか、分かるし、若葉マークの人の運転も、怖くなく乗れる。
何度か走り屋の人が目をつむって運転した時、その人がカーブに怖くなり、急ブレーキをかけ
「のぞ美さん、ゴメン❗」
と言ったが、私は怖くなかった。
まるで飾りじゃないのよ涙はの世界。
不思議と怖く無いのだ。
幼い頃、逆説的に育てられたせいか?
しかし、車の修理も出来ずに
「俺のフェラーリがよ~」
とか自慢する男を鼻で笑ってしまうのは私だけか?
パチンコから大分離れてしまったが、車好きと公認するなら、自分で修理しな!