NO❗と言える私

 人は自分のサンクチュアリ(聖域)に土足で踏み込んでくる人には

「NO.❗」

と言わなければ、駄目だと思う。

 人それぞれ譲れない何かがあるし、守らなくてはいけない人や物がある。

 そこにズカズカ入って来て、黙っている必要はないと思う。

 そこで、言わなければ、他人はナメて、馬鹿にし、こき下ろす。

 たとえ、友人であっても、いや、むしろ友人だからこそ、自分の思いをしっかりと伝えるべきだ。 

 何故なら、自分がすり減ってしまうから。

 私は人から、ナメられやすい。

いつも、馬鹿な事を言って、笑わせてるから。

 「のぞ美さんには言っていいや」

と感じるのだろう。

 あと、いつも、楽に生きているようにうつるらしい。

 だから、見ていて腹が立ってくるのだろう。

 私にだって、心はある。言われたら、傷ついたりもする。

 誰も自分の事を分かってくれないと、一抹の寂しさを感じるが、それは誰しもそうだろう。

 どんなに愛しあってる、夫婦でも、お互い、好みが違ったりする。

 学校に行く意味は自分と感性の合わない人と如何に一緒に居られるか?の訓練だと感じる。

 街を歩くと、赤の他人と同じバスや電車に乗る。

 その時、自分以外の人とどれくらい、接しられるか?

 そんな為の訓練だ。

勉強するだけではない。

 私は人と一風も、百風も?変わっていたから、注目を浴びた。

 私はそれに気付き、自ら道化師を纏った。

尚更、もっと見られる。

 そして、からかい、傷つきながらも、笑わせている自分がいた。

 社会人になっても、そうだ。

 右向け右の世の中で、私だけ、後ろを向く。

 それを個性だと、認めて下さる方もいらしたが、極、少数だ。

 マイノリティは潰されにかかる。特に我が日本では。

 変わっているね、から始まり、天然?もしかして、不思議ちゃん?

 色んな人が色々言ってくる。

 嫌みを言われて直ぐに返せない、私は人達のストレス解消の的になった。

 51歳の今でもだ。大人として、情けない。

だから、今回は努めて冷静に相手を傷つけずに、自分のサンクチュアリに入るなと伝えた。

 嫌われても仕方ない。

これだけは譲れない事が私にもある。

 言わないでウジウジ悩んでいるよりも、言って嫌われた方がマシな事がある。

 人は必ず、誰かに迷惑掛けているし、知らないうちに傷つけたりするものだ。

 だから、お互い様と言う言葉がある。

自分だけが、正しいとお互い思うから、憎しみが産まれ、戦争になる。

 自分のサンクチュアリに踏み込まれず、相手を傷つけずに生きて行けるのが、大人だと思う。

 もう、話したくないと、フンッ!と向こうを向いた友人がいたが、本当に大学生まで息子さんを育てた大人なのだろうか?と疑問を感じた。

 よく、娘に育てられました、と仰る方がおられるが、子供がいない人は全て育っていないのか?

 違うだろう?

勿論、子育ては大変だろうが、子供を育てても、私の元友人のような、お子ちゃまもいる。

 一生独身でも、大人の人もいる。

子供を産めない人に子育て大変と言うと、傷つくだろう。

 そういう想像力を持ってる人を大人だと、私は思う。

 駄目な事はダメと言いましょう。