挨拶ぐらいは目を見なくっちゃ!
私は自死で友人を3人、失っている。
会ってはいないがまだ、多くいるかもしれない。
生き別れの父は死亡日が定かではない。
母もコロナで面会の前日に亡くなっっている。
だから、親の死に目にあっていない。
人はいつか、必ず死ぬ。
私は今日死ぬかもしれないと思いながら生きている。
そう考えると、誰にでも優しく出来る事に気付いた。
自分が死ぬならまだしも、相手が亡くなったら、ああしておけば良かった、こうしておけば良かったと必ず後悔をする。
だから、私はただ道を訊ねただけの関係でも、サヨナラする時は目を見て
「ありがとう」
と、伝える。
今の事業所は人と話すのが苦手な人も居るから返事は期待していない。
私が良しと思える挨拶をする。
必ず人が亡くなったら、後悔する。
それをできるだけ、軽減した事に越したことはない。
私は友人たちの力にはなれなかった。
その分、出会った人全てに気持ちよくいて欲しい。勿論、自己満足だ。
情けは人の為ならず。自分の為にやっている。
もし、別れ際、背を向けて、適当にバイバイして、次の日、その人がこの世にいなかったら、一生後悔するだろう。
だから、出会った時の挨拶と、別れるときは目を見て、今日で最後だと思って挨拶する。
もし、今、嫌いな人や苦手な人がいたら、今日で最後かもしれないと考えると、嫌いとか、苦手な感情等、吹っ飛ぶのではないか?と友人に話すと
「あなたにはついていけない」
と、去っていった友人も居る。
しかし、その子たちもいつか分かってくれると、信じて、私は私なりに生きていくしかないのだ。
そんなに変な事を私は考えているだろうか?
自分は一度死んだ事があるから、極端に聞こえるのかもしれない。
私の事が嫌いな人は死んでも私の事が嫌いなのだろうな。
でも、私が愛しているからそれで良し!
高校の時、マ・スール(シスターのフランス語)が、二人の美しい女性が居ました。一人は誰からも愛されました。だから、綺麗だったのですが、もう一人の女性は皆から好かれなかったのに、綺麗でした。どうしてでしょうか?彼女は誰からも好かれなかったけれど、みんなのことを愛していたから、綺麗だったのです。
この話を聞いて30年以上経っても、覚えております。
私はこの女性の様な愛を人に与え続けられる人間でいたいと、この年になっても感じます。
私のことを嫌いな人も愛せたら、ほんまもんの愛と思いませんか???
勿論、ストーカーはいけませんが・・・・・・。