私の母

2022.8.20

 

 母は私が幼い頃は専業主婦だった。

亭主関白の父に甲斐甲斐しく世話をした。

 父が浮気した時に呑めないお酒を呑んで、お風呂場の鍵を締めてワンワン哭きながら何かを叫んだりした事があったり、幼い私の手を引いて車が走っている所を渡ろとしたり、少しノイローゼ気味だったが、段々と母も逞しく(たくましく)なって、父の事を

「中田」とか「オヤジ」と呼ぶようになった。

 夜勤だからと言って、女のアパートに泊まって来たら直ぐに分かってしまう。

 よく、帰って直ぐにお手洗いに入ったり、理由もなく、怒りながら、入って来たりする時は浮気してきた時だと、私に教えてくれた。

 あと、遊んで歩いた男性が、結婚したいという、女性に

「どうやら、子供出来にくく、精子が薄いみたいなんだよね」

と言って来たら気を付けなさいと、幼稚園の頃に教わり、24歳の時に働いていた、上司に

「中田さん。俺、どうやら、子供出来ない体質みたいなんだよね」

と言われた時に

「きたー!これか!」

と、心の中で叫んだ。

 母は一人娘の私に執着した。

血が繋がっているのは私しかいなかったから、無理もないだろう。

 私は東京の大学へ行きながら、バイトをして、ミュージシャンになるのが目標だったが、母に止められ函館に働く事になった。

 小学生の頃の同級生がリーダーをしているバンドが、デビューすると言う、風の便りを聞いた。

 そして、あれよあれよと売れてしまった。

 父が暴れて、手が付けられなくなり、母と二人で、秋田に来た。

 私は働き過ぎと、慣れていない土地、東北独特の県民性に付いて行けずに病気になり、入退院を繰り返した。

 母は呑気にそのバンドの歌をかけながら、車を運転していた。

 夢破れた娘の前で、よく聴けたものだなと、頭に来て、カセットテープを取り出し、車の窓から投げ捨てた。

 一時期、私は楽器を弾くどころか、音楽が聴けなくなった。

 みんな、馬鹿ばかりだと感じていた。

 暴れて、壁に穴を空けたりした。

ある時、母もキレてしまい、暴れる私に馬乗りになり、平手打ちを10発受けた。

「いたい!」

と言う私に

「当たり前でしょ⁉️殴っているんだから!壁も誰も殴られたら、みんな痛いのよ!」

と言った。

 そうこうしているうちに、母も私も歳をとり、母は段々と、ボケてきて、私の主治医に一緒に通うようになり、生き別れの父が亡くなってから、認知症はどんどん進んでいき、娘の私に

「のぞ美はどこ?」

と訊くようになった。

 オムツを履くのを嫌がり、トイレットペーパーをパンツに入れていたりした。

 矢張、女だし、大人の自分が何故?と母も戸惑いがあったのだろう。

 訪問介護さんの手をかりながら、暫くは私が面倒を看ていたが、ショートステイ等をやりながら、施設に入った。

 金銭的には苦しかったが、私を娘だと認識してくれるようになったのは救いだった。

 母は赤ちゃんのようになっていった。

よく、お年寄りは赤ちゃんに戻ると言うが

本当だ。

 1年前のバレンタインの朝に旅立った。

我が母ながら、美しい顔をしていた。

 昔から、太れない体質で、35kgだった。

父も太らないので、私は誰に似たのだろう?

 今は母の二人分位ある。

 母は幸せだったのだろうか?

 私は母のようには生きれない。